エルヴィン・ジョーンズは1927年アメリカ、ミシガン州生まれのドラマー、作曲家。演奏家としてはジョン・コルトレーン・カルテットのドラマーとして知られている他に、60年代のウェイン・ショーターやジョー・ヘンダーソン、グラント・グリーン、マッコイ・タイナーなどの作品にも参加している。70年代以降もスティーヴ・グロスマンやデイヴ・リーブマンなど様々な後進ミュージシャンをバンドで育成した。
バスドラム、スネア、シンバルなどに定められていたそれまでの役割を否定し、ドラムセット全体を使ってグルーヴを創り出すスタイルや、様々なポリリズム/シンコペーションのパターン、繊細なブラシワークなどはその後のドラマーに絶大な影響を与えている。
バイオグラフィー
デビューまで
1927年ミシガン州ポンティアックに10人兄弟の末っ子として生まれる。父親は検査官をしながら教会のコラール歌手をしていた。また兄にトランペッターのサド・ジョーンズ、ピアニストのハンク・ジョーンズがいる。
幼少期から姉にドラムや音楽について教わる。13歳の時にドラマーになる決意をし、1日に8~10時間練習をするようになる。ハイスクール卒業後、1946年から1949年まで兵役で軍楽隊に在籍。慰問のため国内の空軍基地を回りながら、クラシック音楽の勉強もしていたという。
50年代
軍楽隊を除隊後、サックス奏者ビリー・ミッチェルに起用され、デトロイト・シーンにデビューする。デトロイトではチャーリー・パーカーやソニー・スティット、マイルス・デイヴィスなどと共演。特にマイルスとは6ヶ月間行動を共にしていた。またデトロイトではケニー・バレル、バリー・ハリス、カーメン・マクレエとグループを組んでいたこともある。
50年代半ば、デトロイトにツアーに来たマックス・ローチが体調不良になったため、代役として演奏する。この時の演奏が評判を呼び、アート・ブレイキーやジョー・ジョーンズとも面識を得る。その後1955年にニューヨークに進出。チャールズ・ミンガスやバド・パウエル、マイルス・デイヴィス、J.J.ジョンソン、ギル・エヴァンズ、ソニー・ロリンズのバンドで演奏するようになる。50年代のジョーンズ参加作では、1957年のソニー・ロリンズ・トリオのライヴ盤『A Night at the Village Vanguard』が名高い。
60年代
1960年、ジョン・コルトレーン・カルテットに加入。同年10月に録音した『Coltrane’s Sound』、『My Favorite Things』などを皮切りに、1961年『Live at the Village Vanguard』、『Impressions』、1963年『John Coltrane and Johnny Hartman』、『Live at Birdland』、1964年『Crescent』、『A Love Supreme』などいくつもの歴史に残る名アルバムを録音。同バンドは後に「クラシック・カルテット」と呼び伝えられるようになる。
コルトレーン・カルテットに在籍している間にも、ギル・エヴァンズの『The Individualism of Gil Evans』、ウェイン・ショーターの『Speak No Evil』、ジョー・ヘンダーソンの『Inner Urge』、アンドリュー・ヒルの『Judgment』(いずれも1964年)マッコイ・タイナーの『The Real McCoy』(1967年)など、60年代を代表する作品に参加する。
コルトレーンのバンドでは、1965年に集団即興作品『Ascension』を境にフリー路線に突入したコルトレーンと音楽的な関係が悪化。12月録音の『Meditations』を最後に、翌1966年1月コルトレーン・カルテットを脱退する(一方で、1965年には『Transition』や『Sun Ship』のような『A Love Supreme』の発展的な作品も残している)。
コルトレーン・カルテット脱退後はリーダー作品を精力的に制作。1968年にはリチャード・デイヴィスとの『Heavy Sounds』や、ジョー・ファレル、ジミー・ギャリソンをサイドマンにした『Puttin’ It Together』を録音する。この時期から2サックス、ピアノレス編成を好んで演奏するようになる。
70年代以降
70年代に録音したアルバムはデイヴ・リーブマン、スティーヴ・グロスマンが参加した『Live at the Lighthouse』 (1972)、クラーク・テリーやジェイムズ・ムーディーが参加した『Summit Meeting』(1976)、アート・ペッパーが参加した『Very R.A.R.E.』 (1979)などがある。
70年代後半には若手ミュージシャンの育成も兼ねたバンド「ジャズ・マシーン」を結成し、80年代、90年代にかけてジャズシーンの登竜門としての役割を果たしていく。この頃起用したミュージシャンにはケニー・カークランド、ニコラス・ペイトン、ラヴィ・コルトレーン、ジョシュア・レッドマンなどがいる。ジャズ・マシーンはジョーンズが亡くなる2004年まで活動を続けた。
2004年5月18日、ニュージャージー州イングルウッドで心不全によって76年の生涯を閉じる。
バイオグラフィー参考: Elvin Jones 1927-2004: A True Moment In Time
- 配偶者は日本の長崎県出身のケイコ・ジョーンズ。エルヴィンの死まで作曲家/アレンジャー/ビジネス・マネージャーとして支え続けた
作品
リーダー作
こちらをご覧ください。
発言
準備中
評価
大阪昌彦
「エルヴィンはドラマーのみならず、多くのミュージシャンに影響を与えた。なぜなら彼の独創的な演奏によって、ジャズは新しい局面を迎えることになったからだ。
エルヴィン以前のドラマーはドラム・セットをベース・ドラム、スネア・ドラム、タム・タム、シンバル、ハイハットと、それぞれを別の役割の集合体として捉えていたのに対して、エルヴィンは全部で1つの楽器と捉えたのだ。シンバルが決まったパターンを刻み続け、ベース・ドラムが4分音符を打ち続け、ハイハットが2&4を刻み続け、スネアやタムがアクセントを担当するビ・バップの様式から、それぞれの楽器を組みあわせて1つのウネりの強固なリズムを生み出すスタイル”モード”へ移行させることになる。
彼のスタイルはコード進行の束縛から開放されたモード・ジャズになくてはならないものだった。ロイ・ヘインズもハイハットやベース・ドラムを解き放ったが、エルヴィンのそれは3連を基調に、より四肢のコーディネーションをフィーチャーした、泥臭く、ルーツであるアフリカを感じさせるスタイルだ」(2002. 10, Rhythm & Drum Magazine)
菅沼道昭
「エルヴィンのプレイの特徴の1つとして、”リズムの再分割(細分化)”が挙げられる。リズムの細分化により、フィルやソロにおいてはチェンジ・アップ的なフレージングを活発化し、4ビートのレガートにおいては、そのシンコペーション的ビート感と複合的にポリリズミックなリズムを演出する原動力となっている場合が多い。マックス・ローチ等と共にモダン・ジャズ・ドラミングの改革者となり得たのも、このリズムの細分化によるところが大きいと言えるだろう」(2002. 10, Rhythm & Drum Magazine)
坂田 稔
「現代のジャズ・ドラマーに最も影響を与えたエルヴィン・ジョーンズ。彼の特徴が最も顕著に表れる次の4つの観点から、その個性的なプレイを検証してみよう。
①シンコペーションの多用
ジャズではピアノやギター等のコード楽器奏者がスウィング感を出すために、コードの変わり目より半白前にコードを弾く場合が多いが(それを”アンティシペーション”と言う)、エルヴィンはそれにシンバル・レガートを合わせている。ここから出発して、自在にウラ拍を強調するので、非常にシンコペーションの多いレガートになる。まるでシンバルでも”フレーズを歌っている”ようなプレイで、最も他のドラマーに影響を与えた部分である。
②バス・ドラムのオフ・ビート
バス・ドラムのオフ・ビート(ウラ踏み)もエルヴィンの大きな特徴である。全般的に3連符を多用するドラマーなので、(3連符の1、2音目をスネアやタム、3音目をバス・ドラムで叩く)ようなプレイがしばしば聴かれる。このようなプレイはロイ・ヘインズやマックス・ローチもやってはいたが、エルヴィンほど多用するドラマーは他に類を見ない。このバス・ドラムのオフ・ビートも後続ドラマーたちに大きな影響を与えた。
③ポリリズム
エルヴィンのプレイはよくポリリズムと言われる。音数が多いため、複雑なリズムに聴こえるからだ。確かに両手両足を駆使しての複雑なリズムもポリリズムではあるが、ここでは4拍子における3拍フレーズを例に挙げよう。このような拍子の交差としてのポリリズムは多くのドラマーがプレイするが、エルヴィンはその代表的なドラマーだ。
④ブラシ・ワーク
エルヴィンはブラシ・ワークの屈指の名手でもある。特に手足のコンビネーション・プレイで左右の足がどこからでも出てくるようなイメージのプレイは、それまでのドラマーには聴かれない革新的なものだ。今ではそのスタイルを継承するドラマーは多い。ブラシ・ワークでも、彼はジャズ・ドラミングの方向を示唆し、決定づけた」(2002. 10, Rhythm & Drum Magazine)
出典
雑誌
(2002. 10) Rhythm & Drum Magazine